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日記を継続的に書けない僕が、時々更新する記録帳

靴について思うあれこれ(僕が好きなスニーカーについての話)

初めまして。

このブログはこれまで何度も試してきたものの日記を継続的に書くことが出来なかった僕が、コツコツ書くことを諦めて書きたいときに書きたいことを記していくメモ帳です。自分の考えや感情の記録を中心に書いていきます。

 

記念すべき初投稿ですが、コツコツやるのが苦手な僕が何を書こうか色々考えることが出来るはずもないので、安直に自分の趣味についてでも書こうかと思う。前提として一つ言っておきたいのだが、僕はファッションについての知識はまして、興味も薄い世の中にありふれた一大学生なので、もし間違ったことや変なことを言っていたとしても多めに見ていただきたい。


では、早速話に入っていこう。 

趣味といえるほど大して時間も熱量もつぎ込んでいるかといわれるとそうでもないのだが、何が好きと言われれば靴と答える。

世の中にはたくさんの靴がある。ランニングシューズや登山靴といった各スポーツに適した形や機能を持った靴、安全靴、北欧の木靴のように文化的に価値がある靴などなど。もちろんそういった靴にも興味がないわけではないが(安全靴はあまり興味ないな)、僕が好きなのは革靴やスニーカー、サンダルといった日常で履く靴だ。

現代社会で外に出ると言ったらほとんどの人が履く靴、外に出る=靴を履くといっても過言ではない日常に溶け込んだあいつらだ。

こだわりがあると言っても高額な靴に手を出せるほどの財力も熱量もない。作り手のこだわりやテーマを感じる靴をネットで調べたり店舗で見てニヤニヤしながらたまーに気に入ったものを買う程度だ。

そんな大したことのない僕だが、今回は僕なりに思うスニーカーについて話していこう。

つい最近まで革靴一辺倒だったのだが、スニーカーの波が今僕に押し寄せている。

スニーカーというとナイキやアディダスニューバランスといったブランドをイメージすることが多いと思うし、スニーカーオタクという人は圧倒的にこれらを好む人が多いだろう。もちろん僕もナイキやアディダスなどのスニーカーは格好いいと思うし履いている人を見かけるといいなと思うことは多々ある。

しかし、僕はこれらのいわゆるマンモスブランドのスニーカーを好んで集めようと今は思わない。理由は大きく3つある。

1つは、マイナーなブランドを発掘するのが好きだからだ。マイナーとはいっても日本ではあまり有名でないけど海外ではメジャーなブランドだったり様々だ。私が思うに時代の潮流はあれど、とにかくスニーカーという世界はナイキ、コンバースアディダスニューバランスの存在感が強すぎて多くの人の目は他のブランドたちにはいかない。少し興味のある人がオニツカやリーボック、プーマを履いていたりするだけだ。

スペルガやパトリック、ディアドラといったブランドのスニーカーを履く機会はほとんどないだろう。(歳を重ねれば違うのかもしれない、あくまでも若者についての話)

だからといってそのメーカーがよくないわけではなく、彼らにもこだわりがあり素晴らしいシリーズが山のようにある。僕にとっては、こうしたメーカーのスニーカーを見るのがたまらなくツボなのだ。最近はディアドラのN9002がたまらなくキテる、久しぶりにグッと来て欲しい!と思った。最近の80年代や90年代など各時代をデザインテーマにする流行りを取り入れつつディアドラのホームのイタリアで作られているという作りにもこだわりが感じられる。

因みにこのスニーカーは1980年代のオリンピック女子団体イタリア代表のスキーウェアのカラーリングからインスパイアを受けているそう。こういったテーマ性を素直に表現できるのはスニーカーならではの魅力であると思う。

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次に、スニーカーのラインナップが豊富すぎることだ。もうこれは言わずもがなだと思うがナイキのようなブランドのスニーカーは種類が非常に多い、一口にスニーカーといってももう何百という種類があり僕には追いきることが出来ないのだ。僕の性格上、どちらかというとやるならある程度は深く追いかけたい。しかし、マンモスブランドは今どんなシリーズを展開しているのか把握するのも一苦労でこれに今までのシリーズについても把握するとなると純粋にキツイ、沼である。靴オタクというかはスニーカーオタク、いやナイキオタク、アディダスオタクとなってしまうだろう(ニューバランスは比較的種類は少ないかもしれないが生産国やマイナーチェンジなどで追っていく気が失せた、コンバースも種類は比較的多くないがこれまた国によって様々な部分があって難しい)。僕はスニーカー以外の靴も好きだし、財力もたかが知れてるので手元における靴は限られる。いくら深めても多くの靴を手元に置くことはかなわないなんて酷な趣味はやってられん。

最後に、靴の魅力はデザイン等の装飾美だけではなく、道具としての機能美も兼ね備えたその絶妙な美の両義性にあると考えているためだ。これはスニーカーに限った話ではない

これはさっきの話と少し被るのだが、大きなブランドの伝説的シリーズといわれるものが世の中にはいくつかある。ナイキのAJ、コンバースのチャックテイラーなどなどだ。これらのスニーカーは時として美術的作品としての性格を帯びる。数十年前のものや限定品はあまりにも人気であったりするため、高値で取引され、履くことなく(または加水分解によって履ける状態ではないほど変化してしまったものを)鑑賞品としてガラスケースに入れられ保管する人もいるほどだ。別にこれを批判したいわけではなく伝説的作品にそれだけの価値がつくのは当然だし、そういったものを外で履いて汚したくないと思う気持ちも十分にわかる。

しかし履けない靴に自分がお金をかけ情熱を注げるかというと別だ。僕にとって靴はやはり道具としての一面があり、特にスニーカーは革靴と違い、ソールの摩耗や加水分解といった寿命のある靴だと思っている。逆に寿命がある道具であるからこそ輝く魅力があるとも思う。僕の思うスニーカーの魅力は。それはデザイン性による装飾美と快適な履き心地を目指し得られた機能美を兼ね備えてる所なのだ。僕にとって道具としての役割を担えなくなったスニーカーは魅力に欠ける。僕は各ブランドがそのスニーカーに込めたデザインといった装飾美だけではなく快適な履き心地といった機能も体感したいのだ。

 

これらの理由がナイキやアディダスなどではなくちょっとマイナーなスニーカーを追っかける理由なのだが、興が乗ってきたのでなぜ僕が靴が好きなのかを最後に記したい。

靴は僕にとって道具であると同時に自分を素直に表現できる数少ないメディアだ。

冒頭から何度か言っているように僕にとって靴の魅力は道具としての機能を持ちながらテーマを踏まえたデザイン性があるその両儀性なのだが、数ある靴の中から選んでそれを履くということは僕を表現する新たな道具にもなる。

1つ1つの靴にはそれをデザインしてどういった場面で履かれるかは当然想定されているし、それを踏まえてデザイナーや制作者側は作り上げている。その靴に込められたテーマや思いを理解し、それらに共感した上でその靴を履き生活していく(もちろん、一目ぼれで買うときもあるが購入後にちゃんと調べてたりする)。僕にとってお気に入りの靴を履くことは、自分がどんなストーリーに共感する人間なのか、どういう色を持っているのかを静かに社会に発信することなのだ。

社会に発信するといっても靴がしゃべるわけでもないし、文字を書くわけでもない。

到底メディアといえるほどの代物ではないし、弱弱しいものなのだが私にとってその言語化のフェイズをすっ飛ばして自分が素直に好きなものが何かを形にでにることはとても貴重なのだ。

始めに断った通り、僕はファッションやおしゃれといった言葉から程遠い平凡な大学生で、服を買うときはいつも無難に無難にと考えながらユニクロに足を運んでいる。

当然自分に芸術的センスやファッションセンスがあるなんて思ったことはないし、

これからも思うことはないだろう。

さらに言うと、僕は自分の感情を素直に話したりするのがすごく苦手だ。好きなものを好きというのは何だか恥ずかしいし、嫌なものも周りからの目線を気にしてきっぱり言いづらい。そうやって普段は生きている。

そんな僕だが、なぜか靴だけはあまり周りの目を気にせず好きだといえるのだ。服よりあまり目立たないからだろうか、親が足元は大切にしなさいと育てられたからか、好きになったきっかけは分からない。

ただ、思い返せば小さい頃から新しい靴を買ってもらうとすごいワクワクしたし、ずっと大切に履こうと汚れても自分で勝手に掃除していた。

そうしてだんだんと月日が経ち、食べ物の好みや他のことで好き嫌いが変わったこともあるが、振り返ってみると大それた熱量ではないけれど靴への興味を失ったことはないし見ていて純粋に楽しい、今でもワクワクする。

靴が好きになったきっかけは分からないといったが今自分が何故好きなのかと問われたら心の中でそっとこう思ってる。(実際に聞かれたら格好いいからといってる。間違ってはいないが不十分だという感じだ)

少し気味が悪いのだが、靴は僕にとって共感者であり、僕も靴への共感者である関係性が好きだから。

 

その靴が背負っているブランドの歴史や思いやデザイナーらの気持ちといったストーリーを自分なりに解釈をして消化しつつ、自分の嗜好にあった靴を選びそれを履く。この過程を踏まえた靴は僕にとって、僕の好みを肯定してくれる共感者であり、なおかつ僕もその靴の持つ思いに共感する共感者なのだ。(正確には靴の後ろにいるブランドや作り手への共感者といったところか)

そういった靴を履くことは僕にとってそっと自分を表現してくれていると思う。

表現といっても共感が欲しいわけでもない(褒められたら当然うれしいけれどね)。別に誰かにそのスニーカーを選ぶのが理解できないと言われても構わない。なぜなら靴自体が僕にとっての最大の理解者であるのだから。その理解者との関係性に何か言われても気にすることは恐らくないだろう(まあ何百人とかに否定されたら分からんが)。

ただ、そういった唯一に近い素直に自分を表現できる靴が僕は好きだし、大切にしたい。そしてこれからもそれは変わらないだろう。

 

僕は靴が好きだ。